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流祖 渡邊海旭師

「壺月」についてお話しするうえで欠かせないのは、

当流の流祖であります

大正・昭和の大徳、

渡邊海旭(わたなべ かいぎょく)師

(正六位勲六等、贈大僧正、ドクトル・フィロソフィー)

であります。

壺月は渡邊 海旭師の号であります。

 海旭師は、1872年1月15日(明治五年)に東京浅草の田原町に生まれました。

幼くして父を亡くし、

家が貧しく家族と離れて13歳で博文館(トーハン・東京堂書店、共同印刷の前身)の小店員となります。

西光寺住職端山海定和尚に才覚を見いだされ得度して、

浄土宗学東京支校(現芝中・高校)に入学、

その上の宗学本校(仏教大学の前身)を卒業しました。

当時の仏教界は、

明治維新後の廃仏毀釈により、

明治新政府による仏教弾圧がありました。

浄土宗など仏教教団は、

存続の危機に立たされてしまいます。

文明開化の風が吹き仏教も変化が求められました。

28歳で浄土宗第一期海外留学生としてドイツのストラスブルク大学へ留学し、

当時すでに梵語学者として世界のインド学壇に令名をはせていた

エルンスト・ロイマン教授に師事しました。

十年間の留学を終えて帰国後、

浄土宗労働共済会

を設立し、

労働者の宿泊所や職業案内所、

簡易食堂、

授産所などを経営するなど、

「福祉」が整備されていなかった当時にあって、

仏教者の立場で社会事業に取り組まれました。

「社会事業」

という言葉は海旭師の造語だといわれております。

芝中学(現 芝中学・高等学校)の校長を務める傍ら、

東洋大学や宗教大学(現大正大学)などの教授も務められました。

また、

芝中学校出身の柴田徳次郎氏の国士舘創立に頭山満、渋沢栄一、徳富蘇峰と共に創立に携わり、

国士舘の理事、教授を務めました。

他にも満州の鏡泊学園の総長、

巣鴨女子商業学校、

大阪女子商業学校、

岩淵家政女学校などの教授や経営にも携われました。

最も輝かしい功績は、

仏教研究には欠かせない

「大正新脩大蔵経」正続八十五巻(大正十三年~昭和七年)

を高楠順次郎氏とともに刊行しました。

インドからの亡命者ラス・ビハリ・ボーズを匿った新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻を助けました。

特に相馬黒光は海旭師を慕い大事にしました。

中村屋から壺月羊羹を出したほどでした。

海旭師が住職を務めた深川の西光寺には、

20数名の若い僧や学生達がおりました。

貧しい学生には補助をするなどをして勉学のサポートもしました。

その学生達の中に先々代の宗家青柳貫孝師がおり、

西光寺から芝中に通い大正大学を卒業しました。

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