宗家二世青柳 貫孝師
青柳貫孝師は、
浄土宗の僧侶で渡邊海旭師の側近の弟子でした。
戦前にサイパン島に渡り、
島民や子女達の教育に力を注ぎ、
当時ないがしろにされがちだった女子教育の為にサイパン家政女学院を設立し,
戦後は、サイパンからの引揚者と共に八丈島で香料(ベチバー)栽培を行いました。
青柳貫孝師は、
明治二十七年(1894年)
新潟県高田市(現上越市)の浄土宗善導寺に生まれました。
中学四年の時に御尊父達存を亡くしてしまいます。
その後善導寺の檀家は、
実質的な長男である貫孝師が大学を出て住職となるまで待つか、
新住職を迎えるかで議論になり結局後者が優勢となり、
貫孝師の遺族は寺を追われ、
働きながら幼い兄弟達の面倒もみたそうです。
生前、
先代の父に「寺を乗っ取られた」と話されていたそうですから、
子供ながらに大変悔しい思いをされたそうです。
上京し海旭師が住職をつとめて深川・西光寺に寄宿します。
海旭師が校長をしていた
芝中学に通い、大正大学を卒業します。
大正六年(1916年)
遠州流顧問小宮山宗正師より茶道師範免許
を取得し、
壺月遠州流を創流しました。
西光寺の檀家には新宿中村屋を創業した
相馬愛蔵・黒光夫妻
がいたためインドへの留学が実現します。
大正十年(1921年)
にインドへ渡り、
ベンゴール・ボルプール市のサンチニケータン大学
(現タゴール国際大学)
にて
アジアで初のノーベル文学賞受賞者で詩人
ラビンドラナート・タゴール
に茶道を教えました。
セイロンやビルマなどへも渡り茶道を伝えます。
貫孝師は、
一旦帰国して
昭和四年(1929)
文京区本郷の潮泉寺の住職になります。
昭和七年(1932)
に浄土宗の管長より南洋群島開教の命令
を受けて、
サイパン島に
「浄土宗 多宝山南洋寺」
を建立いたしました。
ロタ島、ポナペ島(現ポンペイ島)、ヤップ島
にも開教をされました。
「南洋群島」
とは、今ではあまり耳にしない呼び方ですが、
第二次大戦前、戦中に用いられた呼称で、
西太平洋のグアムを除く赤道以北に散在する
マリアナ・カロリン・マーシャルなどの
旧日本委任統治領諸島郡の総称です。
現在では、
ミクロネシア
と呼ばれている地域です。
第一次世界大戦終結後、
ヴェルサイユ条約により日本は南洋群島の統治を委任されることになりました。
この地域は19世紀末から第一次大戦までドイツ領でしたが、
ドイツの敗戦後国際連盟から委任を受ける形をとって、
福祉・発展を後見するという建前で実質的な支配を行い、
日本語教育も進められていました。
当時のサイパン在住の日本人子弟は小学校卒業後、
男子はサイパン実業学校に進むことができましたが、
女子教育は用意されていなかったため、
教育を受けさせたいと思えば日本に帰国するしかありませんでした。
帰国しなくてもサイパンで子弟教育が受けられる必要性を感じられ、
当時の愛国婦人会に呼び掛けて、
昭和十一年(1936)
に後のサイパン高等女学校の前身である
サイパン家政女学校
を設立し茶道や華道を教えていたようです。
サイパンはスペイン統治時代からキリスト教(カソリック)でしたので、
仏教を広めることはせずに茶道や華道を伝えました。
島民、日本人を問わず無料で教えたそうで250人ほどの生徒がいました。
丸い表に茶道のお点前が図説化された紙を使い、
誰でも順番ややり方をすぐ覚えることができたそうです。
終戦後、
サイパンからの引揚者と一緒に八丈島に渡りました。
曽田香料と交渉をして、
農場と工場を開設し、
ベチバー
というインド原産の香料の栽培と蒸留を始めました。
その傍ら、
明治大学付属八丈島高等学校
で兼任講師として教壇に立ちながら茶道も教えられたようです。
ベチバー油製造法を編み出し、
工場を軌道に乗せた後に曽田香料を退社し、
再び南洋へ渡りました。
晩年の昭和四十年代は横浜で易占をしたりして生計をたてていました。
先代の宗家・中村如光(名聞)師は、
サラリーマン時代に横浜の六角橋で易占をしていた青柳貫孝師に鑑定をしてもらったことがきっかけで入門しました。
貫孝師の記事を書くにあたり、エッセイストの寺尾紗穂さんの調査・取材がなければ師の詳細な足跡を知ることはありませんでした。
以下を参考・引用いたしました。
参考文献:
◎『南洋と私』寺尾紗穂(著)リトルモア2015年
◎孤高の僧 青柳貫孝の生涯 ― 民族の違い超え人間の平等貫く 寺尾紗穂2015年11月13日付 中外日報(論)。